2017年8月3日(木) 19時57分~20時54分 放送の奇跡体験!アンビリバボーでフロイド・シュモーが特集される事が3日わかった。
フロイド・シュモーはアメリカ合衆国の森林学者で自然学者という肩書をもちながら著述家としても知られている人物だ。
そんなフロイド・シュモーは実は歴史に埋もれた奇跡と言われる、原爆のヒロシマ秘話!信念を貫いたアメリカ人として特集される。
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フロイド・シュモーの経歴とプロフィール
【氏名】フロイド・シュモー
【読み方】Floyd Wilfred Schmoe
【生年月日】1895年9月21日 – 2001年4月20日
【職業】森林学者、自然学者で著作家であり、クエーカー教徒の平和主義者
フロイドは1895年にアーネスト・シュモーと妻ミンタの間の5人兄弟の2番目として生まれた。
フロイド・シュモーの実家はカンザス州のプレーリー・センターという小さな町で育った。
カンザス州のプレーリー・センターの農場を経営していた両親は代々従順なクエーカー教徒だった。
フロイド・シュモーはその六代目だった。
田舎の自然豊かな町でそだった彼は自然を愛する心優しい青年として育った。やがて成人すると森林学者、自然学者の道を歩むようになる。
思想的には平和と平等と民主主義を愛するリベラルな人間だった。暴力を憎み、自然と人の命を大切にし、やるべきことを具体的な行動に移すという姿勢は終生一貫していた。
第二次大戦時には、日系人の強制収容に反対し、自らの危険を顧みず日系人の支援をした。 広島への原爆投下をニュースで聞くや、深い悲しみと怒りに突き動かされ、直ちに大統領に抗議電報を打ち、この罪悪の償いのために自ら行動を起こすことを誓った。
平和主義者のフロイド・シュモーは兵役を拒否、赤十字に参加
徹底的な平和と平等を愛したフロイド・シュモーは第一次世界大戦(1914 – 1918)が始まると、とんでもない行動で周囲を驚かせる。
なんと、自らの平和を愛する思想心情から良心的兵役拒否するのだ。
良心的兵役拒否したフロイド・シュモーは赤十字に参加しフランスで救急車の運転手や担架担ぎとして活躍。
さらにポーランド救済委員会の指示によりポーランドの難民へ食料や衣料の配送などで活躍していた。
原爆投下に憤りを感じたシュモーが起こしたある行動とは!?
徹底した平和と平等を愛したシュモーはアメリカが起こした戦争犯罪と国際法違反の広島長崎への原爆投下に怒っていた。
アメリカによる原爆投下で一瞬にして数十万人の尊い命が奪われてしまった。
シュモーは両親から徹底した平和の大切さを教えられていた。
それだけに、アメリカが二度も国際法違反の原爆投下に強い憤りをおぼえてた。
その怒りをシュモーは「自分の頭の上に原爆が落とされたようだ」と形容していた。
広島では町は文字通り、見渡す一面が焼け野原。
両親を亡くした孤児、家族と生き別れになり家がなくなってしまい路頭に迷う人たち。
そんな人たちを目の当たりにしてシュモーはある行動を起こす。
シュモーは広島の家・シュモーハウスを建設する
シュモーは「自分の頭の上に原爆が落とされたようだ」として、アメリカが起こした人道に対する罪を償うために来日を果たす。
森林学者のフロイド・シュモー氏は、広島・長崎への原子爆弾の投下に良心が傷きずつき、住居を失った広島の人々へ家を建てることを計画した。
資金の募金活動を行い、1949年(昭和24年)8月、シュモー氏は仲間とともに最初の家の建設を始めた。
シュモーは広島の皆実町にシュモーハウスを建設した。
一言で、家を立てるといっても資金も募金活動で一から資金を調達。
その後の活動は日米の違い、年齢、人種などと無関係に広がり、国内外からたくさんの人が広島を訪れて一緒に家を建てるようになった。
シュモー氏は原爆に遭ったわけではないが、人の痛みを自分の痛みと感じて行動したことで、その活動は広がっていったのだ。
結局、シュモーハウスはなんと、全米から集めた金で資材を調達し、来日。1953年までに住宅など計21棟が建設されている。
シュモーハウスの現在
シュモーハウスは51年に集会所として建てられ、2011年3月まで使われた。21棟のうち現存する唯一の建物。12年に原爆資料館の付属展示施設となり、写真やパネル、実際に使われたトンカチなどが展示されている。