吉本せいの生涯が今、話題になっている。吉本せいは言わずと知れた吉本興業の創業者。

そんな彼女の生涯を平成29年後期の連続テレビ小説「わろてんか」で描かれることになったのだ。明治後期から第二次世界大戦の大阪を舞台に、“笑い”をふりまくヒロインの人生を描くモデルが吉本せいなのだ。

 

しかし、実は吉本せいの生涯を語る中で山口組との以外な接点は、あまり公にはされていない。

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吉本せいの生涯

吉本せいと夫の吉本吉兵衛の夫婦が寄席経営をスタートさせたのが吉本興業の基礎だ。

吉本せい・・本名は吉本 勢

1889年12月5日生まれ 1950年3月14日没
綿や麻の織物商の林豊次郎と、母のちよの間に生まれる。

兵庫県明石出身 なんと12人兄妹の次女で弟ものちに吉本興業入りしている。
両親は吉本せいが幼いっころから大阪で米屋の商売をして、中々繁盛していた。

小学校でも、成績の良かった彼女は米穀仲買人の島徳蔵方に女中奉公をするが、とにかく愛嬌がよく明るくい吉本せいはすぐに家主に気にられて商売とは何かを幼くして学んでいく。

1910年4月の20歳の時に、大阪上町本町橋の荒物問屋「箸吉(はしよし)」の息子吉本吉兵衛と結婚した。二年後には夫と天満八軒の一つ「第二文芸館」を入手。寄席経営をはじめることをきっかけに後の吉本興業を起こす。

当時から無名の落語家やどこにも属さない漫才師をどんどん自分の寄席に出演させて人気を博す。これが型にハマる事をきらう関西の芸風のピタリと当たる。様々な演目披露であっという間に人気は広がり、小さな寄席を買収しては会社を大きくしていった。今で言うところの寄席のチェーン展開を開始したのだ。

1915年(大正4年)には南地法善寺の「蓬莱館(旧・金沢亭)」を買収し「南地花月」とする。これが有名な花月の誕生となる。
1916年(大正6年)には本拠を大阪市南区東清水町に移転。この頃から「吉本興行部」を正式に名乗るようになる。
1928年(昭和3年)吉本せいが勅定紺綬褒章を受章
1938年(昭和13年)吉本せいが「通天閣」を31万円で買収

1948年には吉本興業合名会社(1932年に設立)から吉本興業株式会社に改組。会長に就任。

上方演芸界を掌握するようになっていた。

この後、東京進出など、日本の芸能界の礎を築いたのが吉本吉兵衛と吉本せいの夫婦だった。
その後、通天閣の買収や芸人の月給制度をスタートさせたり、寄席のフランチャイズ化など様々な取り組みをスタートさせていたのだ。
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吉本せいと山口組との以外な接点とは

実は、吉本せいと、山口組には大正から昭和にかけてかなりの接点があったのは有名な話だ。

当時、沖仲士仲間を集めた労働者組織のリーダーとなった山口春吉が神戸の港で活躍していた。

屈強な肉体で神戸の港で勢力を伸ばしていた山口組と吉本せい率いいる上方のお笑いがどこで接点をもったのだろうか?

 今からおよそ100年前に当たる大正初期、港湾労働者を集めて山口組を組織した春吉は、対立していた労働者組織の瓦解や三菱商船などとの大口契約という幸運に恵まれ、一気に組織の規模を大きくした。ついに神戸港の顔役にまでなった春吉は、日々過酷な労働を続ける労働者をねぎらうため、浪曲や漫才といった寄席を開くことを決めた。その依頼先が同じ関西圏で勢力を伸ばしつつある吉本興業であったのは言うまでもない。

引用:http://news.livedoor.com/article/detail/5815305/

下の者の労をねぎらう為に初めは吉本を使っていたが、さらにこの組織が近づくことになる。

大正14年、春吉の長男・登が山口組2代目を襲名すると、さらに吉本と山口組の関係は密接になる。港湾ビジネスを先代に任せた登は、浪曲興行に本腰を入れ、興行主の吉本から用心棒や地ならしを請け負う。このころ始まったラジオ放送の普及とともに、浪曲や漫才は全国的なブームとなり、両組織の全国進出の足場を作ったと言える。

吉本せいは山口と組んで全国展開を狙っていたのだ。

そして、両者の関係が決定的になるのが、浅草で人気のあった浪曲師・広沢虎造を吉本に所属させて東京進出を目論んだのだ。

浪曲師・広沢虎造のマネジメントを手がける浪花家金蔵との話を取りまとめたのが山口組と言われている。

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